コロナ禍で露呈「大阪市教育行政への提言」現職の大阪市立小学校校長が実名で

2021年5月17日に大阪市立小学校の校長が大阪市に向けて教育行政について提言しました。その内容は、教育について深く考えさせらるものでした。
そのため、行政や教職員のみではなく一般の方々にもこの提言を知ってもらうことで、現行の教育について考えてもらいたいと思い、この記事を書いています。
この提言を読み、本来の教育のあり方と現行の教育のギャップについて考えていただきたいと願っております。1人1人が、教育について考え、意見を持つことでより良い教育、「子どものため」の教育になると信じております。

大阪市教育行政への提言

大阪市長 松井一郎 様

大阪市教育行政への提言
豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために

子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。

学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ働くことへの意欲さえ失いつつある。

今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。

持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。

現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。

また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。

つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うがそんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。

「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければこのコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々
が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚しく、わたしたちの教育への情熱を萎えさせるものか、想像していただきたい。

子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。

あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。

間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。

「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。

コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。

根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。

令和3(2021)年5月17日
大阪市立木川南小学校
校 長  久保 敬

出典)レイバーネット日本

提言のキーポイント

  • 子どもの育ちが画一化されている
  • 「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中
  • 教員のやる気を削ぐ制度
  • ICTは1つの手段

子どもの育ちが画一化されている

「学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している」

この言葉ほど今の教育を表しているものはないでしょう。もっと言えば高度経済成長期から学校の工場化は続いているように思います。日本社会になじむように規則を守り、先生の言うことを聞くことが褒められ続け、それ以外の子どもに生きづらさを感じさせるような教育。
私はこのような教育を見て、学校は「歯車養成工場」と今も思っています。
高度経済成長期から変わったことは、日本社会からグローバル社会になっただけ。それ以外の部分は社会になじむような人間(商品・歯車)を作るための構造が残ったままのように感じる。

久保校長も指摘している通り、子どもはテストの点によって評価される。教育の成果は全国学力テストなどの結果によって測られる。
果たして、これが教育の本来のあり方なのでしょうか?
教育は「子どものため」にあります。テストの点数による評価を重視して行うことが「子どものため」になっているのでしょうか。子どもをテストの点で評価することは、何のためにやっているのでしょうか。私は、大人が「教育してるな」と確認するためにしかやっていないように感じます。

実際に大人は、全国学力テストの点数やPISAの点数などを気にして、その点数の平均を1点でも上げるように求めます。これは、何の意味があるのでしょうか。この点数を上げる施策が、本当に「子どものため」になっているのでしょうか、必要な「学び」の支援のあり方なのでしょうか。
子どもは大人の道具ではありません。

「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中

久保校長は、「競争」ではなく「協働」の社会が重要であるという意味を込めて、この文章を書いたのだと思います。
この『「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中』については、同意しかねる部分があります。それは、「競争」を悪とし「協働」を善として捉えている点です。

久保校長の言うように完全に「生き合う」世の中というものは、重要ですが、理想でしかありません(大人がその理想を語り、目指すことは大変重要であると思います)。
しかし、「競争」というものが無くならないということは紛れもない事実でしょう。この「競争」はそもそも悪なのでしょうか。おそらく悪ではないのではないかと思います。
「競争」がなければ、人間はここまで高度に進化していないでしょうし、もっというならDNA間の「競争」がなければ生物は進化していないでしょう。
つまり、「競争」というものは進化するためには必要なもので、一概に悪とは言えません。また、遺伝子レベルで競争してしまうのが生物であるため、競争がなくなることはないでしょう。
そのため、「生き抜く」世の中という側面は無くならないように思えます。

では、問いたいと思います。
「競争」「協働」は共存が不可能なものなのでしょうか。
私は不可能ではないと考えます。そもそも既に共存できているという方が正確かもしれません。「競争」があるからこそ「協働」が生じ、「協働」するからこそ「競争」が発展するように思えます。

そのため、「生き抜く」世の中を生き抜くために、「生き合う」精神を育成することが重要なのではないかと考えます。

教員のやる気を削ぐ制度

人事評価制度や目標管理制度という本来であるなら、教員のモチベーションを上げるためのものである制度が制度が機能しておらず、ただやっているだけになってしまっている現状があります。むしろ、教員のモチベーションを下げるために機能しているのではないかと思うほどです。

その原因の一つとして、目標の設定が、全国学力テストで〇点上げるなど先ほど述べたように、学習の本質から外れたような、本当に「子どものため」になるかわからないような目標を設定させられるからというものがあると思います。

教育の成果というものはこのような数値のみで測れるものではないので、より多面的な視点で目標を設定する仕組みが必要であると考えます。

他にも、現職の教員の方からお話を聞いて問題が多々あるなと感じる部分が多いのですが、ここでは割愛させていただきます。

ICTは1つの手段

GIGAスクール構想などで公教育でのICTの導入が推進されました。このICTの導入の推進によって、教育の幅が広がり、できることが多くなりました。
しかし、ICTの導入によってICTを使わなければならないという風潮が広がっているのも事実です。これは手段が目的化している典型的な例であります。

ICTを使わなければならないのではなく、ICTを使うとより効果的で「子どものため」になる場合に使われるべきです。他の教育に使われるものも同様です。

この提言に対する松井市長の返答

Yahoo!ニュース:松井一郎市長 オンライン学習めぐり批判書面送付の校長に「社会人として外に出たことあるんかな」

上記は、この久保校長の提言に対して大阪市市長である松井一郎氏が言及したことについての記事です。この返答に対して皆さんはどのように感じるのでしょうか。

皆さんの感じ方に影響を及ぼしたくないので、個人的な意見は控えますが、良くも悪くも政治家だなあと思いました。

まとめ

久保校長の「大阪市教育行政への提言」は、現在の教育現場の大きな問題点を集約したものであるように思えます。しかし、問題として浮き彫りになっているものは表層にすぎず、その深層には学校に蔓延る風潮や形骸化している制度など様々なものがあると考えます。
このような学校に子どもが通っている現状が恐ろしいと思います。学校を本来あるべき「子どものため」の姿に戻すために一緒に働きかけてみませんか。
まず、全員が教育について考えることで、第一歩を踏み出せるように思います。
もう教員などの内部からの改善できないほど現在の学校教育は堕落しています。この堕落した学校教育から子どもを救い出せるのが、我々外部の人間です。
教育について考え、行動することによって、この堕落した学校をあるべき姿に戻そうではありませんか。

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